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つらつらと [散文]

生きてます。
色々あって死にそうですが(お金的な意味で)。

思うところあって駄文ブログにしたいと思います。一日三千文字。
これがつらいのか楽なのか、ど素人にはさっぱろわからない。
とりあえず、400字詰め原稿用紙八枚分ということしかわからない。
いや待て、あの原稿用紙で8枚も書くのか?
読書感想文ですら、2枚以上使うとなると苦労していたこの俺が?
ありえない。
そんなの無理だもん。
話は簡潔なほうがいいじゃん。
だから読み手もさくっと。
しかし、書かねばならない。
そう、自分が文字読みだと考えた場合、そこに求めるのは読みごたえだ。
ただ文字数があればいいというわけではないがしかし、簡潔にさらっと表現されたものではなく、こう、なんというか、イメージが脳内に浮かぶような想像力を掻き立てる表現で、かつ明快なストーリーが読みたいと思っているのだから。
まあ、こう考えるのは俺だけかもしれないし、他の人は明快なストーリーを好むかもしれないし、難解な謎や比喩を交えた表現を好む人もいるかもしれない。
好みは千差万別、それは読み手の数だけ存在していていいはずだ。多様性は歓迎すべき事項だ。
おっと、話がそれた。
つまり、何かを書く、ということにおいて、必要なことはたくさん文字を書き連ねること。そしてただ言葉を羅列するのではなく、意味のある、かつ筋の通ったものにすることが求められている。
と俺は考える。異論はもちろん認めよう。俺が改心するかどうかはさておくが。
そして、ネットで読むような小説などの文章の場合、いちどきにさらっと読める文字数の平均が大体三千文字くらい、というのが俺の出した結論だ。
もちろん、他のところでいろんな人が既に通っていて、この結論はもう出ている可能性もあるが、そこはそれ。
ただ単に遅くなっただけで、そこにたどり着けたという意味においては大事なことである。
学問にしたって、まずは先人たちがたどり着いた結論を習得するところから始まるのだから、学ぶ側に立っていると考えればそこに速さは関係ない。
毎年小学校から(今は幼稚園からか)学び始める子供たちがいるように、歴史は繰り返していく。
つまり、文字書きとして学習を始めた人たちは、いろんな試行錯誤から、この結論にたどり着くことであろう。
ネットの検索であっさりたどり着くってのも別に悪いことじゃない。人に教えを乞うことと自力でたどり着くことに、知識は全く関与しない。
知識は知識としてただそこにあり、当人が自分で気づくか人から教えられるかの過程の違いを生むだけで、知識自体は全く揺るがない。
また話がそれた。
とりあえず、一日当たり三千文字を量産できるようにならなければ、文字書きとしての最低ラインに届かない、というのが、現時点で俺の得た結論だ。
ちなみにこの時点でようやく千字を超えたくらいである。
すでに心が折れそうだ。
まあ、実際物語の系統を書くとした場合、三点リーダーやせりふに使うカギかっこ、エクスクラメーションマークやクエスチョンマーク、果ては星マークなどで字数が稼げるのだし、それほど悲観したものではないかもしれない。
だが句読点、テメーはダメだ。
句読点で字数を稼ぐのが嫌いな人は多いと勝手に思っているが、俺個人としては許せんレベルくらいに嫌いである。
他の人が多様しているのは止めないけど、そのように書かれた文章の感想を聞かれようものなら、つまり俺に直接関係してきた場合には、自分がいかに未熟であろうとも、バッサリ切って捨ててやる覚悟はある。まあ覚悟があるだけで実際に本人に直接言うとは限らないが。
さておき。
嫌いな理由をとりあえず述べておこうと思う。わざわざ書き出すのは、共感者を増やすのが狙いだ。
ぜひ、いろんなところで句読点のおかしさを指摘して、読みやすい文章の普及に力を貸してほしい。
句読点の多い文字列は、実は身近なところで見かけるのだ。
それは、レポートやメール、特に社会人になってから書かれる長文のメールやレポートにおいてよく見かける。
ここに注意しつつ、嫌いな点をあげつらっていこうと思う。
まず、読みにくい。
わざわざ文章にしているのに、なぜ話し言葉で書くのか、だったら直接喋れ。
プレゼン資料で長文を書くことはまずないが、レポートはどうだろうか。
考察文が書かれていないとただの結果報告でしかなく、意味がなくなるからだ。
そこで、句読点が多い文章を書くということは、まとめる力が低いとみなされても仕方がない。
一音一音区切ったり、意味の繋がるところでも区切ったりされても、読むのがしんどいだけだ。
そういう文章は発表資料で自分が喋る場合の原稿だけにしておけばいい。
一音一音区切られていれば、聞き取りやすくはなるだろうから。
次に、どこに話の要点があるのかがわかりにくい。
適切な句読点を入れることで、一連の流れが意味を持ち、かつ適切に区切りが入ることで、意図するところを伝えようとしているのが読み取れるからだ。もちろん、句読点もなくただ改行で流れを表現されても厳しいは厳しいが。
そして最後に、バカに見えるからだ。
まあとりあえず次の文章を見てほしい。
『この結果により、この不具合動作は、特殊事例であり、通常では、行われることが、想定しづらいため、通常の、エラー対応ではなく、別ルートでの、特殊対応とするのが、効率的と考えます。』
どうだろう。
このテンポで話される分には、別に何とも思わない人も多いと思う。
しかし、この文章で報告書がかかれていたら、どう思うだろうか?書いた人の頭が悪く思えるはずである。
残念ながら、以前工業系の会社にいたときに、この手のレポートやメールを上司から受け取って絶句した記憶が、俺にはある。
むしろ、自分のレポートを訂正してもらった時に、このように直されてしまい、思わずカッとなって書き直して更に怒られたくらいだ。
その程度で起こるとは何て器の小さい上司だろうと、その時は思ったものだ。
また話がそれそうなのでこの辺にしておこう。
句読点の使い方については、文字書きでまだ未熟、と自認している以上、自分だってうまく使いこなせているとは思えない。
だが、文章を細切れにして、読みやすくしてやったと勘違いする文化だけは、許しがたい。根絶すべきとまでは思わないけれど。
ソコまで嫌っておきながら、俺が根絶すべきとまでは思わない理由として、そういった表現が好まれる場合があることを知っているからだ。
例えば、一人称語りの小説の場合。
女子高生とかが主人公だとなおさら。一時期のケータイ小説とかに多そうなイメージがある。
この場合、句読点の多さが間を生み、感情の流れが追いやすくなる。もしくは、淡々とした流れを生み出し、感情の起伏をたどりやすくする。
こういった表現の場合には、別にいいかな、と思ってしまう。
他には、エッセイ
これも自分語りに近いため、表現としては問題ないと感じている。
あとは、セリフ。
息切れの表現だったり、感情の起伏の薄さの表現だったりと、多用出来るところはいくらでもある。
このような場合に限り、俺個人としては句読点が多用されてても黙認している、いやむしろ違和感を感じていない。
つまるところ、一個人を表現する場合は、句読点が多用されてても違和感を感じにくい、という俺の性質が関係しているのである。
結局自分の問題なのではあるが。
さて、自分語りを始めてようやく三千文字に手が届きそうなところまで来たので、今回はこれにておさらばとさせていただきたい。
ただ思いついたままをつらつらと書き連ねただけにしては、思いのほか時間がかかったと思うが、時間を計ってなかったのは失敗である。
次からは、かかる時間も考慮して三千文字を目標に書き連ねていきたい。
それではでは。
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